柯旗化故居

柯旗化の生涯

学問の探求と戦争の記憶

1929年生まれの柯旗化は、1941年に首席で左営公学校を卒業、翌年ずば抜けた成績で高雄中学に合格しました。当時、高雄中学の生徒の日本人と台湾人の割合は約4:1、台湾人が入学許可を得ることは相当難しいことでした。高雄中学の在学期間中に勉学に励んだ柯旗化は、1945年に戦争のため学徒兵として徴兵されたとしても、鞄の中に何冊かの本を詰め込むことも忘れませんでした。

1946年に師範学院(現在の国立台湾師範大学)の英語科に合格し、在学期間中に英語本科の知識だけではなく、読書範囲も多岐にわたり、文学・歴史・哲学・精神分析などの分野にまで及びました。卒業後、柯旗化は中学校で教職に就き、旗山中学、高雄市立一中、高雄女子中学、高雄中学などの学校で英語教師を務め、1954年に米軍事顧問団の翻訳官に就任したこともあります。

1934年撮影
柯旗化(一番左)5歳時の家族写真

高雄中学卒業写真
1955年高雄女子中学にて卒業生との写真

前列左から5人目が柯旗化
17年間の投獄

1951年7月31の深夜、柯旗化は4人の秘密警察に家に『唯物弁証法』があったことで、左翼思想を抱いていると無理やり認定され、謀反の嫌疑でひと月ほど尋問を受けました。その後、身柄を台湾省保安司令部保安処に送られて取り調べを受け、翌年にまた当該司令部の新生訓導処第八中隊で引き続き勾留、緑島の第一大隊に連れ回されて強制労働と思想改造を受け、1953年4月6日にやっと釈放されました。出獄した後、柯は第一英数塾を開き、第一出版社の経営に乗り出しました。1960年に『新英文法』を出版したら、40年あまりにわたり中学生の英語文法学習のベストセラーとなりました。その先に再投獄された際に、この本による収入は家庭と出版社を支える重要な柱になりました。

1961年、政府は再び謀反罪で柯旗化を逮捕、懲役12年の判決を下しました。1973年刑期満了の際、政府はまた冤罪で禁固3年とし、1976年6月にやっと釈放されました。獄中で何度も拷問や殴打を受け、心身共に非人道的な虐げを受けた柯旗化は、出獄後もたびたび秘密警察に追跡・監視されました。このような白色テロ下の生活はあまりにも過酷で、戒厳令解除されても、彼の心に深いトラウマを残しました。

判決書
情報機関員による柯旗化の調査文書
1972年2月泰源刑務所で
後排左4為柯旗化
後列左から4人目が柯旗化
1975年夏緑島の海岸で、二度目の投獄
晴らされた冤罪と追憶

1992年、柯旗化が日本語で執筆した『台湾監獄島―繁栄の裏に隠された素顔』が完成しました。この本には彼の苦難の人生が記録され、自由・民主への憧れと信念が込められています。柯旗化は生前にこの本を中国語に翻訳しようとしたが、認知症を発症したため中断しました。友人である葉寄民、阮美娃、楊碧川は翻訳を引き継ぎ、最後は長男の柯志明の整理を通して、『台灣監獄島:柯旗化回憶録』という題名で完成されました。

50数年前の無実の罪による投獄(最初の616日間投獄のこと)は、2000年の1月ついに冤罪であることが認められました。病床の柯旗化は遅ればせながら、名誉が回復され、正義を得ることができました。2002年柯旗化病没、享年73歳。

2002年2月2日の追慕礼拝で、息子の柯志明が父親についてこう述べています。

「存命中の父はもしかしたら終始穏やかならぬ気持ちでいたかもしれません。我々他の者にとっては、幸い父が身をもって苦しみを引き受けてくれたことで、やっと一息ついて過去を振り返り反省する機会を得ることができました。父が受けた苦難と犠牲がようやく人の心を洗い清める助けとなり、父が切なく思い焦がれた故郷台湾が、より自由に生活できる、恐怖のない場所であることを我々家族は願うばかりです。」

 

2002年2月3日徳生教会での告別式
柯旗化の墓に佇む妻の蔡阿李
民主運動に奮闘

1976年の出獄後まもなくして、1979年の美麗島事件を皮切りに始まった80年代の民主運動に駆り立てられた柯旗化は、前線に立ち台湾政治の正常化と二二八事件の犠牲者の名誉回復のために努力しました。そのため、時に街頭運動をしたり熱っぽく政治論をふるい政治改革への期待を呼び掛けたりしました。この他にも、政治社会運動に身を投じる際にはいつも台湾人に向かって台湾本土文化の重視や自覚を訴えました。そのために、1984年に台湾文化図書目録を編集し、また同年に台湾文化図書服務部(サービス部)を設立、1986年には季刊誌『台湾文化』を創刊、本土文化の啓蒙を通して台湾人の自覚を促したのです。
柯旗化にとり言論の自由と民主化の訴えは参政の手段ではなく、真の人権を求めた故の行動であり、こういった活動にも生涯をかけて貫きつづけてきました。

国連加盟の是非を問う住民投票を訴えるデモ
『台湾文化』刊行禁止に抗議
二二八記念日に烈士を追悼

文学人生

新英文法の誕生と第一出版社

1958年、柯旗化は長年の丹念な研究と英語教育の経験をもとに『初中英語手冊』(中学校英語ハンドブック)を編纂、1960年に『新英文法』を出版しました。この本の出版は、折しも1968年から始まった9年間の国民義務教育実施という時代の流れに乗り、多くの英語学習人口を養成することになりました。本の中できちんと整理された文法や生き生きした例文は学生の好評を博し、出版から50年を経た現在控え目に見積もっても販売冊数は200万冊を超え、2世代にわたる台湾人の英語学習の共有の記憶となっています。

国中(中学)新英文法の自筆原稿
新英文法の表紙
文学の創作

「混乱の時代において、もし我々がまだ良心と正義感を持っているならば、いかにも手をこまねいて見ているわけにはいかないのだ。だから私は自ら社会の腐敗や人々の苦痛への義憤を訴える詩人になり、苦しんでいる同胞のために発言しようと、また詩を通して鬱積した気持ちを表現しようと決めた。時代の本心を書き表せることを願っている。」

-柯旗化『鄉土的呼喚』(郷土の叫び)序文

柯旗化は複雑とした英語文法を論理的にまとめて『新英文法』を出版しただけではなく、文学を愛し、サツマイモ・半屏山・水牛をテーマに情緒あふれる詩や小説を書いて、生命と土地への熱い思いを込めました。更に筆を走らせ台湾政治・文化・民主への期待と批判を込めた作品も多数発表。音楽も愛する柯は、簡潔なリズムで「自由的歌聲」(自由の歌声)、「團結為臺灣」(台湾のための団結)というひたむきな曲も書いたり、ペンを手に文法書・新詩(五・四運動以降の口語詩)・散文・政論・歌曲などの作品を創作したり、生命に対する情熱と土地への思いを織り交ぜた文学人生を全うしたのです。

『自由的歌聲』(自由の歌声)の自筆原稿
『台湾監獄島―繁栄の裏に隠された素顔』の日本語自筆原稿
1985年9月28日 第一出版社3階の書斎にて房

待ち続けた15年

海を隔てて

柯旗化の妻、蔡阿李は1933年に生まれ、高雄女子中学を卒業後、小学校で教鞭を執り、1955年に柯旗化と結婚しました。安穏とした人生を送るかと思いきや、柯旗化の投獄で状況が一変しました。一人で家計と子育ての重圧を負い、夫を待つ時間の苦しみの中、いっそ太平洋に身投げし全てを終わらせようとしたこともありましたが、自分が夫の支えであり子供の頼りであることを思い出すと、歯を食いしばって苦しみに耐えて、家計を支えながら辛抱強く子供たちを育て上げたのでした。

白色テロの時代において、政治的受難者の家族は重苦しいプレッシャーを受けていました――警察の何時とも知れぬ訪問、腫物に触るような周囲のまなざし、得も言われぬ恐怖が仲睦まじかった家庭を覆いました。一家5人、父親不在の中、まだ幼い子供達は皆蔡阿李が養い育てました。蔡阿李が家庭の困難に遭おうとも、無私の心で尽くし全てを捧げ、子供のために尽くしきった姿は、一人の毅然とした台湾女性の姿を見せてくれます。

米国にいる父親

1961年に柯旗化が再び投獄された時、長男の志明は5歳、末っ子の志哲はまだ1歳未満でしたが、1976年に柯旗化が出獄した時に志哲は既に16歳になっていました。獄中の期間、柯旗化は妻の蔡阿李が送ってくる写真を通してでしか子供たちの成長を見ることができませんでした。

子どもたちを心配させないように、蔡阿李は柯の投獄に意図的に触れないようにしていました。そのため、子供たちに「お父さんはどこにいるの?」と問い詰められるたび、「お父さんはアメリカにいるの」と苦し紛れにひねり出した嘘しか言えませんでした。特別な祝祭日でも、柯旗化は蔡阿李にプレゼントを頼んで、お父さんがアメリカから送ってきたのよ、ということにしたのです。

1955年3月29日婚約写真
1958年家族写真
1964年 賞状を手にする潔芳と志明
1971年
柯の妻.蔡阿李と3人の子供達
1987年
結婚32周年記念写真

高雄の人権運動

高雄市は台湾で唯一国連に認められた人権都市として、人権にまつわるスポットがたくさんあります。例えば1947年の二二八事件で、台湾全島で初めて国民政府の軍事的鎮圧に遭った場所――高雄市政府(現在の高雄市立歴史博物館)、1979年に警官と民衆の衝突により爆発した美麗島事件など、高雄の長年にわたる人権運動の努力の痕跡を記録してきました。毎年おこなわれる追悼の儀式と展示、出版などの社会教育を通して、台湾の人権活動へ献身した闘士らに敬意を表し、歴史的意識を高め、現在の民主を大切にし、台湾歴史の主体性と人権の普遍的価値を守ることを期待しています。


二二八事件

1947年2月27日に台北市で発生した闇たばこの摘発が引き金となった二二八事件は、政府への要求が警官と民衆の衝突へと発展、国民党政府による台湾の接収以来蓄積されてきた人々の鬱憤が爆発し抗争と衝突は数日で台湾全土に拡大、無数の死傷者が出ました。衝突が高雄まで拡大したのは3月3日、3月6日に高雄の要塞司令官の彭孟緝が軍隊による鎮圧令を出しました。こうして高雄は国民党政府による軍事鎮圧がされた台湾初の地となったのです。


旧高雄市政府写真
高雄市二二八和平記念碑落成式

白色テロの時期

問・財産没収などをした時期のことです。これにより、大量の冤罪による死者・投獄・負傷者が出ました。さらに軍事裁判の一連の訴訟で人々の生命・財産・健康、そして心は甚大な損害を被ったのです。


戦後の白色テロ事情聴取文書
元日本海軍鳳山無線電信所
(鳳山招待所)


美麗島事件

1979年に高雄で連続して起こった「橋頭事件」と「鼓山事件」がきっかけとなり、自由民主化を訴えていた反国民党の「党外」の人々による抗議や警官と民衆の小規模な衝突が起こりました。その年の12月10日の世界人権デーまで、美麗島雑誌社のメンバーが中心となった「党外」は民衆を組織しデモ活動を行い民主と自由を訴えました。その間に発生した警官と民衆の衝突は、最終的に政府が派遣した軍・警官により全面的に鎮圧され、「美麗島事件」と呼ばれるようになりました。台湾では二二八事件以降最大規模の官民の衝突です。


雑誌『美麗島』
『台湾時報』の事実の歪曲に抗議

柯旗化の生涯

1929年 高雄左営で生まれ
1935年 左営公学校に入学(現在の旧城国民小学校)
1942年 高雄中学に合格し入学(四年制)
1946年 高雄中学卒業、師範学院(現在の国立台湾師範大学)英語科に合格し入学
1949年 師範学院卒業、旗山中学の教員に就く
1951年3月 高雄市立女子中学の教員に転任
            7月31日 「左傾化思想」の政治犯として、高雄北野町派出所に勾留され、翌日高雄警察局に連行 
            8月4日 台北の保安司令部保安処に送られる
1952年1月 新生訓導処第八中隊に送られ、政治犯として扱われる
            4月 緑島の新生訓導処に送られ、労働教育と思想感化教育を受ける
1953年4月 感化教育終了。釈放され、高雄市立女子中学に復職
1954年7月 米軍事顧問団に転任し翻訳官となる
1955年12月 蔡阿李と結婚
1956年12月 長男、柯志明誕生
1958年3月 長女、柯潔芳誕生
1958年5月 『初中英語手冊』(中学校英語ハンドブック)初版、高雄市立女子中学を退職。塾経営をやめ、第一出版社を創設
            9月 『新英文法』出版
            12月 次男、柯志哲誕生
            10月4日 再び逮捕され、警総保安処に送られる
1962年1月 台北軍法処軍看守所に拘禁される
            8月20日 懲役12年の判決を受ける
1969年 小說集『南国故鄉』出版
1973年10月4日 刑期満了にもかかわらず、緑島新生感訓隊に送られ拘禁される
1976年6月19日 緑島で釈放される
1984年 台湾文化図書目録を編集、台湾文化図書服務部(サービス部)を設立
1986年 詩集『鄉土的呼喚』(郷土の叫び)出版、季刊誌『台湾文化』を創刊
1990年 中・英・日・台の対訳詩集『母親的悲願』(母親の悲願)出版
1992年 日本語の自伝『台湾監獄島―繁栄の裏に隠された素顔』を日本で出版
1995年1月 パーキンソン病と診断される
2002年1月16日 病没